こんにちは、えみちかです。
前回のストーリーでは、
私の大人になるまでをお送りしました。
過去の記事はこちら
[STORY0] 初めて「私」を語ろうと思います。
[STORY1] まわりの目を気にしながら大人になった私
本当に振り返ってみると、
私の中の基礎となる価値観は
祖母、そしてビジネスをしていた実家で
この時期につちかわれたんだなぁと
つくづく当時を振り返ります。
改めて環境の力って何物にも勝る
と私は思います。
みなさんもそうではないですか?
ご自身の子どもの頃を重ねて、
また長年身を置いた場所から、
ルーツとなる価値観を
思い出してみてくださいね。
ちなみに、私は、
その価値観があるからこそ
うまくいったこともたくさんありますし、
逆に、その価値観が邪魔をして
うまくいかないこともありました。
そんなことも、このストーリーの中では
触れていきたいなと思います。
さて、今日は私の人生の価値観が
大きく変わっていくそんなお話を
お届けします。
・・
育った家庭環境の反動から
ごくごく普通に家族が暮らす、
そんな家庭へのあこがれが強くなった私。
小・中学校と地元の私学一貫校。
高校・大学は名古屋の名門女子校へと、
親族において女子のお決まりコースに進みます。
身をきれいに整え、見た目を意識することが
女性のあるべき姿だと、何一つ疑問を持たず
大人になります。
大学卒業後の就職先は、当時花形であった商社 『伊藤萬』 へ就職。
当時はバブル期で、浮かれたご時世の中
会社は社会的に大きな事件を抱え、
私は、親族に連れ戻されるように
寿退社のレールを引かれます。
結婚は、
祖母が太鼓判を押した
眼科医の男性のもとへ嫁ぎました。
その後、長男と長女を授かり、
私は母となりました。
また、夫の開業と同時に、立ち上げた
メディカルサポート法人の代表取締役に就任し、
夫婦としてビジネスパートナーとして
二人三脚の日々を送ることとなります。
とはいえ、
その法人も夫のクリニックがあってこそ。
肩書きこそは代表取締役でしたが、
私はクリニックの中では
”院長の奥様”に過ぎなかったんですよね。
普段は、子ども達への英会話教育、
私立中学のPTA役員などにも力を注ぐ毎日。
当時は、子ども達が私の生きがいで
良妻賢母であることが、私のアイデンティティ
だったのかもしれませんね。
そんな折の2011年9月・・・
思わぬ出来事が襲いました。
それは、夫の急逝でした。
あまりにも突然で、当時は悲しむ間もなく、
夫の経営するクリニックの対応に追われる日々。
ドクターを失ったクリニックは、
やむなく廃業することとなります。
この時、私は初めて
「人生の大きな岐路」に立たされました。
一切途切れた収入に、毎月必ずくる請求。
夫亡き後を悲しむ余裕さえありませんでした。
手元の水源が枯れていくのを
ただただ見ているしかない、そんな
切羽詰まる思いを経験しました。
しかし、現実はそうでしたが、
私の世間への見せ方は180度違っていました。
当時のクリニックは、地元では名医と評判で
斬新なデザインの鉄筋コンクリートの建物。
クリニック廃業後の周囲の視線が気になりました。
そのため、弱みは見せられないと
人生最大の苦難に見舞われながらも、
ただ気張ることに力を注いでいました。
今でこそ、その姿に数十年前に父をなくした
直後の母の姿を重ねる気持ちの余裕はありますが、
当時はそんなことすら気付かず、毎日が必死でした。
そうやって気張る一方、
当時、50代になっていた私は、
生きていく術を何一つ
持ちあわせていなかったのです。
とにかく何とかしなければと
クリニック再建に向けて立ち上がり、
後任のドクター探しに全国を奔走し、
何とかクリニックは息を吹き返します。
再起までの一年。
お金が持つ力、
人脈の強さやご縁の大切さを感じました。
その一方で、
夫とのこれまでの二人三脚とは大きく違い
世間とは、所詮は表面的でどこか他人事
そんな事も肌で感じ悟りました。
長らく誰かに庇護されてきた立場だった
私はこの時を機に変わりました。
人生で初めて「自分の力で何とかする」、
いえ「しなければならない」と
自らを奮い立たせたのです。
ここからが実は、
今のEMICHIKAにつながる
私の人生の2幕の幕開けです。
当時は生きていく術を何一つ持っていなかった私が、
そのパワーを使って自分の人生を切り開く起業ストーリー、
次回STORY3でお送りしますね。
たくさんのご感想本当にありがとうございます。
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[STORY0] 初めて「私」を語ろうと思います。
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